谷地平小屋



◆70年代のガイドブックの記述から

 眺望のない原生林帯の中のぬかる道をぐんぐん下る。やがて小沢を渡 り、姥沢右岸ぞいの道となり、だんだん視野も拡がって姥沢を越すと谷地 平小屋につく。この辺は湿原で地面はぬかっているから、姥沢ほとりの河 原で休憩をとるがよい。

 此の小屋は、無人で床・薪・炊事用具・寝具など何一つ備えておらず只、 雨露をしのぐだけのものであるが、ハイカーにとっては誠に有難い存在で ある。猪苗代営林署が作った小屋で、此の谷地平の朝霧は、すばらしい景観 である。……小屋の材木で焚き火をする不心得者が数の中には2,3いる様 であるが、その様なことのない様、厳しく慎みたいものだ。(写真あり、70 年代のブロックとトタンつくりとは異なり、木造りで、壁板があちこちない。)

……やがて小沢を渡って姥沢右岸沿いとなり、姥沢を渡渉すると谷地平小屋に 着く。福島県が昭和41年に建設したカマボコ型の無人小屋で、収容力は15 名程度だ。……

(「アルパインガイド 東北の山」 山と渓谷社 1974年版から)

◆田部正太郎、「吾妻山の高原 谷地平」から
(「高原 紀行と案内」所収、深田久弥編、青木書店、1938年―昭和13年7月刊)

※この紀行は1928、9年ごろのもの。古い仮名遣い、漢字は一部、改めています

 ……五色の佐藤儀兵衛氏より、一緒に山歩きをするという手紙が来た。……青 木山の小屋にどんなに電話がかけられ、谷地平にどんな小屋が出来たかと考え て、興奮した一夜を汽車で明かした。

 ……(五色温泉を)十一時頃出発する。…賽の河原までの登りは冬と同じに辛 く、…この辺は、風の平素強いためか、草地がなだらかで、女性的である。時に 天気よく、米沢の町が見え、雲がなくてだらしない鉢森山も見える。高倉をから んで白土の小屋の沢に至る間は笹薮がひどく一驚を喫する。…上ったり下ったり して行くうちに、小屋近くなって、電柱工事をやっているのを見る。完成に間も ないらしく、ことのほか嬉しく思われた。…青木山の小屋に着いたのは二時、…今 夜はここに泊まることにする。

 (同行の)善七が「山さもうゆがないかし」とかいいながら、前の小屋から焚 き木を山のように取って来て、ストーブにどんどん投げ込む。…
「いつ来ても、この小屋はいいなあ」
「東京にはこんなところはありますまい」
「いや何処にもこんあ小屋はないね。いくら居てもあきないね」
など佐藤氏とストーブを囲んで話している。

 ……谷地平に行くにはまず家形山の向かって左の鞍部すなわち五色沼へ出るのであ るが、これは冬とは大変に異なっている。第一に例の家形山の懐(われわれの仲間で の名称)の辺の薮は、馬に乗っても見えない位の猛烈さである。例の褌(これも以上 と同じ)の辺は冬の家形登山と同じく、小屋の前の道をそのまま登って行く。針葉樹 が多いので茸が沢山に出る所だそうだ。善七が見つけてとって行く。振り返って小屋 の見えなくなる所から、道が左手の山にどんどん入っていく。水のある最後の沢で、 ひと休みのあと、薮を離れて、針葉樹の大小が相当に茂って、からみあった根が道の ステップをなして上がっている。この辺の森林は美しい。大根森の鉢型を右手にから んで、陸測五万分の一「吾妻山」図幅に入る頃に、森が開けて、信夫の高湯道と合す る。この道は三尺幅位の堂々たるもので、一切経まで続いている。ここから東を見下 ろせば、この道が遠くについて霞の彼方に隠れている。路傍に今年できたという避難 小屋がある。冬は使えぬと善七君がいった。

 ……鎌沼を回って右へ切って下ると、地蔵仏がある。それから美しい針葉樹林の間を 抜けて出れば谷地平に下れるのである。
 ……遠くに奏でる渓流のせせらぎも次第に近くなったように思われる。俄然森が開 けて、中吾妻山が見える。…我々は美しい流れを渡って、細かい綺麗な小石の並んでい る川原に立っていた。流れが急ぐともなく、秋の日光を十分に浴してきらめいている。 「小屋が見える」
と善七君の声。新しい生木の香いの去らない小屋が、河原の上に建てられて、我々を迎 えている。
 …ともかく、中の囲炉裏で湯を沸かす。昼食の用意が整う。この小屋は一間半、三間 の板敷と一間三間の土間に分れて、その他便所一間と焚き火と入口が半間と一間半つい ている。すぐ傍らを川が流れている。…屋根は板でどうにかせねば冬は使えぬ。…この 小屋が何時かはスキーヒュッテとして完成されて、青木山の小屋の様なユーモラスにな る時も遠くあるまいと思う。

 ……土湯村から来たという岩魚取りがヤスやビクなどを持ってやって来て、小屋に 入って来る。この川には岩魚が沢山いるそうで、一夜ついて一貫目は大丈夫と力んでいた。


以下は、野原森夫の注釈

田部正太郎氏について
 田部正太郎氏は1930年1月、剣沢小屋で雪崩にあい、死亡した一人。この雪崩では 、窪田他吉郎、松平日出男、土屋秀直各氏と、案内人の立山ガイド佐伯福松、佐伯兵次 (宗作の実弟)ら、6人全員が遭難死している。加藤文太郎は、雪崩の前日、剣沢で一 行6人と出会っている。
 田部氏の谷地平の記録には、昭和元年―1925年に家形山にスキーで登り、いらい 幾度かスキーで登ったとの記述もある。そうすると、この谷地平紀行は、剣沢小屋で遭 難死する前年か数ヶ月前に記録された文章であると推測される。



1960年前後に撮影されたものと思われる。
「みちのくの山」1964年刊から


谷地平小屋の建て替え、変遷について
 このページに紹介した資料から、次の歴史をたどることができる。
1)1920年代後半に建てられた初代の谷地平小屋。(田部氏の記録による)
2)木造りで、痛みがひどい状態が写真に残されている、谷地平小屋。 (「みちのくの山」1964年刊掲載、上の写真)
 推測では1940〜50年代に建設か。
3)福島県が1966年に建設したカマボコ型の無人小屋、収容力は15名程度。(「 アルパインガイド 東北の山」1974年版に記述)。
4)現在の谷地平小屋。
 ここで問題は、1)と、2)の小屋が、同一であるかどうかという点。私は、1920 年代の初代の谷地平小屋が、1960年代まで残っていたとは思えない。無人の小屋は 傷みが早い。谷地平は、夏は湿気が多く、冬は豪雪の地域である。2)の朽ちた小屋は 、おそらく50年代に建設された2代目の谷地平小屋と推測される。
 そうすると、3)の小屋、すなわち70年代前半に私も使用したブロックとプレハブ の谷地平小屋は3代目。現在あるのは4代目ということになる。

イワナ釣り師による利用
 田部氏は、70年近く前の時期に、イワナ取りの人たちのうるさいのに閉口したと2度 の体験から書いている。とくに初夏に宿泊した2度目はたいへんなめにあっている。
 私も、1972年6月に、谷地平小屋で同じ体験をし、持参したテントに逃げ出した。  田部氏の記述を読むと、戦前の谷地平は、イワナの魚影の濃さが相当なものだったよう で、生業あるいは食糧用として、多数の地元の人々が吾妻山の周囲から入山・生活して いたことが伺われる。釣り人の前線基地となる掛け小屋もいくつか点在していたようだ。
 登山者が入るずっと以前に、谷地平はイワナを求める人々によって開かれていたことに なる。

◆山ノートに記されたルート記録から(野原森夫)
準備中

◆1974年当時の小屋の写真と、内部の見取り図(記憶をたどって)






1973年8月、中吾妻越えのあと、谷地平小屋で

◆現況
現況写真を掲載しているサイト
http://www.geocities.jp/slopedad/2001/0804azuma.html
管理 福島県環境共生領域自然保護グループ 024-521-7251
いまは、70年代ごろからの正式名称で谷地平避難小屋とよばれている。

◆野原森夫のサイトの関連山行
吾妻山・大倉深沢遡行 1972年6月
http://homepage2.nifty.com/kinokoyama/touhoku/adumayama-ookurahukazawa.72.6.htm
吾妻連峰縦走―土湯から西大巓 1975年9月
http://trace.kinokoyama.net/touhoku/tutiyu-nisidaiten1975.htm
中吾妻越え 1973年8月
掲示の準備中。


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東京都あきる野市  野原森夫



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