想い出の山小屋

             1977年2月10日記
             恵廸山の会の山ノートから

 吾妻山は、福島県の北西部を占める大きな山地です。その吾妻山の北東はじに、 家形山といって、標高1900メートルくらいの、その名の通り家の形をした山があります。ぼ くが懐かしく思っている家形ヒュッテという無人小屋は、その家形山の東の中腹、ガン チャン落としと呼ばれている急な沢筋の道を下りきったところにありました。

 山好きな人が、山小屋が懐かしいというとき、それは多分、幾度も通いつめたり、 忘れがたい出来事があった小屋にちがいありません。ぼくにとっての家形ヒュッテも、 似たりよったりです。



家形ヒュッテ。1972年8月、父と登ったときの写真。
私は当時、高校3年


 この山小屋の名を初めて聞いたのは中学生の時でした。

 近所にHさんという、20歳少しの、山好きの青年が住んでいて、その人の口 から聞いたのです。吾妻山は、ぼくが住んでいた福島市の西にデンと構えていた山 でしたから、その青年にとっては当然の登山対象となっていたのです。そのころキャ ンプが大好きで、大きくなったらいっぱい山に登ろうと思っていたぼくは、その青年か ら吾妻山の話をたくさん聞きました。そして、いまにいたるまで印象的に、はっきり覚 えているのは、家形山の山小屋、家形ヒュッテの話です。古いけれど、大きくていい小 屋で、200〜300円だせば素泊まりでき、500〜600円で2食付の宿泊ができる、 と語っていました。当時は、管理人がいる山小屋だったのです。

 高校2年の秋(1971年)、ぼくは初めて、この山小屋をめざしました。

 まだ6回目の山行でした。一人きりの日帰り登山で、福島県側の高湯温泉から家形 山へ登り、山形県側の姥湯温泉へ下る計画でした。

 高湯温泉の登山口の標高は700メートル弱。紅葉の中の登山道をたどって、しだいに標 高を上げていきます。登るにしたがって、天気が悪くなる山行でした。標高1600メートルほ どの追分の分岐から右へコースをとり、針葉樹の暗い林の中へ。樹林と落ち葉、土の においの中を息がつまりそうになりながら足早に進んでいくと、突然、樹林が開け、黒 灰色の山小屋が目の前に現れました。

 小屋の中で昼食の予定でした。けれどもぼくは、怖くて中へ入れませんでした。霧が 降りかかって冷えきった外の土の上に腰をおろし、そこで昼食をとったのです。

 家形ヒュッテは、まったく人気のない小屋になっていました。小屋の窓には、ほとんど ガラスが入っておらず、板や毛布を打ちつけています。それさえなく、黒い空隙がぽっ かりと開いた窓もあり、小屋の中の暗さを外に示していました。玄関の戸も壊れてなく なっており、茶色の毛布が打ちつけられて、垂れ下がっているだけでした。

 ぼくは急いで食事をすませると、ポンチョを被り、霧雨のなかをガンチャンの登りにと りつきました。






家形ヒュッテの様子。1972年5月、小屋でメモしたもの。


 初めてこの小屋に入ったのは、年が明けた春、4月にでした(1972年)。

 高湯温泉からのいつもの登山コースには、途中の標高1100メートル付近に、通称「水呑 み場」というところがあります。水がきれいな、小さな沢があって、視界のあまりきかな い、苦しい登りを続けてきた登山者が、ほっとして体を休めるところです。この日は、雪 目が心配なほどの好天だったため、水のおいしさはなおさら。ここからは、残雪の上に のって、ツボ足に足をとられる、歩きにくい登高になりました。灌木帯になって眺めはい いものの、登りは緩急が交互にやってきて、けっこう疲れます。

 その登りの途中で、前をいく、やはり単独行の青年に追いつきました。見ると、彼は 手に、棒きれの先を紙袋でおおった変な物を持っていました。何だろう? と思いつつ も、それは聞かずにいっしょに登りました。積雪期の山の経験はほとんどありませんで したから、同行者を得たのは何より心強い気持ちでした。

 追分をすぎ、樹林の中の厚い残雪の道を、木にぬりつけられた赤いペンキを頼りに たどり、家形ヒュッテに着きました。まぶしい日差しのなかで、残雪を背景にしたヒュッテ は、前に来たときよりもずっと明るく見えました。

 玄関の古毛布をたぐって中へ入ると、真っ暗。目が慣れてくると、荒廃したヒュッテの中 の様子が目に映りました。一階は、床板もなく、ガラスのない窓からたくさんの雪が入り込 んでいました。造りから見て、管理人室だったところ、受付に使われていたらしいところも、 ほこりと吹き込んだ雪でいっぱい。壁はというと、これもはめ板やタルキがないところが目 につきます。「2階は、床がしっかりしているから、10人くらいなら気分よく泊まれる」と、同 行の青年、Fさんが教えてくれました。上がって見ると、なるほど、床板はそっくりしていま す。

 「でも、これじゃ、ちょっとや、そっとの、そうじでは、とてもだめだな」。Fさんはそういって 、持ってきた「変なもの」を床におきました。変なものは、ほうきだったのです。彼は、ヒュッ テを掃除しに来たのです。高校時代に、山岳部だった彼は、幾度もこのヒュッテに泊まっ たと話していました。

 家形ヒュッテがこんなにも荒廃したのは、1970年ころ、12月の末にガンチャン落としを 駆け下る大きな雪崩がおきて、ヒュッテの3分の1くらいを壊してしまったからでした。それ までは、おそらく管理人も住んでいたのでしょう。ヒュッテはその後、応急の修理をしただけ で、荒れるにまかされてきました。

 とにかく雪が多すぎて、荒れ過ぎていて、そうじにはなりません。Fさんには予定を変えて もらって、ガンチャンの急な雪面をキック・ステップで登りました。春の日差しが暖かい山頂 へ。そして、雪の斜面をシリセードで下り、ヒュッテの屋根に上がって甲ら干しをしました。 鳥の声だけが聞こえる、静かなひとときでした。

 それから、1カ月後の5月。ぼくは、1人でこの小屋に泊まろうと固い決意をもって、悪天 候が予想される吾妻に入りました。

 いつもの真っ暗なヒュッテの中。2階へ上がると、ぼくはツェルトを張って自分だけの空間 を作り、インスタント・ラーメンの夕食を作り始めました。戸外はもううす暗く、コンロがうなる 音と、青白い炎が、よけいに寒々とした気持ちにさせていました。ぼくは、不安で不安でし ようがなく、一人でこんな小屋に入ったことを後悔していました。

 出来上がったラーメンをすすり始めた時です。戸外で、人の声がしました。高湯温泉を午 後に発った高校の山岳部のパーティーでした。ぼくは、助けられたのです。

 その夜、みなが寝静まってから、ヒュッテの屋根を雨がたたき始めました。風も出ている ようすで、針葉樹の林がゴーッ、ゴーッとうなっています。雨漏りもし始め、ヒュッテはガンチ ャンから吹き下ろしてくる強い風で、ギーギーと音を立てて揺れていました。

 こうして、ぼくは、幾度かこの小屋を訪れ、泊まりました。沢登りを終えたあと、濡れた体 を休めるために立ち寄ったこともありました。友人たちとにぎやかに一夜をすごしたことも あります。

 お盆に、父と2人で吾妻に入ったときは、やはり風が強い雨の夜に、この小屋に泊まりま した。夜に、小屋の裏手の戸がバタン、バタンと音を立てます。父は「熊でも来ているんじゃ ないか」といって、なかなか寝つけません。結局、1階まで下りて、戸を固定しにいかされま した。ぼくは、1人きりでなければ何も怖くないのだけれど、父の場合は人間以外の山の「 得体のしれないもの」が怖いようすでした。

 北大へ入って、2年目の6月(1974年)。ぼくは、大学祭中の休みを利用して帰郷し、ま だ残雪がいっぱいの吾妻山の縦走を試みました。

 前日から、激しい雨が降っていました。その日の夜には前線と低気圧が抜けるだろうと 予想しての入山でした。高湯温泉からの登りでは、運よく、一時雨が上がっていました。そ れでも、降り続いた豪雨と雪解け水とで、山道はまるで川のようです。家形ヒュッテにたど りつく前に、また空が暗くなり、途中の吾妻山荘に逃げ込むとザーッと雨が落ちてきまし た。

 慶応大学のこの小屋には、高校3年生の冬に泊まっていらい知り合いになっていた、管 理人の岡部さんがいます。懐かしい顔。熱いコーヒーで歓待してくれました。外は雨がいよ いよ激しく降り、ものすごい音を立てて、山の雷も鳴り始めました。

 この雷雨の日、家形ヒュッテは取り壊されたのでした。人夫さんらが、この山荘に泊まっ て作業を続けてきたと、岡部さんが教えてくれました。夕刻になって、さしもの雨も小降りに なったころ、作業を終えた5人の職人さんが帰ってきました。「太い柱がなかなか倒れなくて 苦労した」と話してくれました。

 ぼくは、家形ヒュッテに、冬に泊まってみたいと思っていました。何度も通ううちに、2階の 太い梁の上に非常食のチョコレートをしのばせてきたりした小屋だったのです。こんな雨の 日に取り壊されたと聞いて、淋しいと思いました。

 あくる朝は、ガスが吹き飛ばされて、快晴となりました。壊されたヒュッテ跡を見たくなかっ たぼくは、追分の分岐からいつものヒュッテへのコースをとらず、まっすぐ大根森の登りに かかり、稜線に出ました。

 その後、ヒュッテの跡には、小さなコンクリートづくりの避難小屋が建てられたそうです。


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 家形ヒュッテの歴史についての、補足と訂正

                 2003年8月  野原森夫

 「思い出の山小屋」は、1970年前後から74年にかけて、家形ヒュッテ にまつわる私的な体験と思い出を綴った文章です。掲載の図は、当時、福島高 校3年の私が、山行記録ノートに書き付けた、稚拙な、汚い文字とメモです。文 章は、北大3年めのときに、この山小屋を思い出して書いたもので、学生寮内 の「恵廸山の会」の部屋ノートに書き込んだものでした。
読み返し、眺めると恥ずかしい内容ですけれど、山登りの自分史の一こまである のは確かであり、開設したホームページにはその生のままを転載することにし ました。

しかし、わずかな体験しかない個人の思い出は、正確さに制限があります。多 くの人に愛され、利用されてきたこの小屋の歴史についても、不明な点が多く ありました。その後、60年代の家形ヒュッテについての記録とデータを知 り、「思い出の山小屋」の記述について、ここで補足と訂正を加えることにし ます。

1、家形ヒュッテの開設について

 記録の一つは、加倉井 厚夫さんのサイト
http://www.bekkoame.ne.jp/~kakurai/
 にある、吾妻小舎の歴史についての年表です。
http://www.bekkoame.ne.jp/~kakurai/mount/azuma/event/60th/azuma_60.htm

 これによれば、家形ヒュッテは、1952年12月1日に、開設されました。
 福島県が設置主体、管理は高湯温泉組合です。
 ちなみに、吾妻小舎は1934年開業と歴史が古く、慶応吾妻山荘(慶応ヒ ュッテ)の完成は1969年となっています。

2、雪崩による管理人の死亡、その後の運営・営業の様子

 RCCのメンバー方のサイト
水辺と山径
http://www47.tok2.com/home/susumu2/
のなかの、
http://www47.tok2.com/home/susumu2/23-41-iegatahyutteshuri-1.html
などに、60年代後半、家形山に修理に通った当時と、それ以前のヒュッテの様 子が紹介されています。

 それによると、ヒュッテは、私が伝え聞いた雪崩によって、小屋の1階部分を 中心に半壊。その際、管理人が亡くなられたとのことです。小屋の骨格はその後 も長く残っていたことから、雪崩は小屋内に大量に入り込み、1階部分を埋めつ くしたのでしょう。
 雪崩の時期は「スカインライン開通の数年後」とあり、また66年ごろの時点 で数年前となるため、1960年代初めごろのことと推測されます。

 雪崩に遭う以前、家形ヒュッテには管理人が常駐し、1泊2食付の宿泊も提供 していたことも、この記録には記されています。

 「水辺と山径」では、私のこのページに掲載したヒュッテの図面も転載して くださり、管理人がいた当時の小屋の仕様について、追加の記述をおこなってい ます。
 それによると、先の私の図面の1階部分で

  北側のコンクリートは以前の台所。
  中場,右上のコンクリートは管理人室。
  手前,コンクリートにはストーブと脇を抜ける煙突があった。
  左手,板の間、床下に例年通り春ツァー用薪を詰め込む。
 という状況だったようです。

3、雪崩後の荒廃と、60年代後半のRCCによる管理

 「水辺と山径」には、次の記述があります。
 「ヒュッテの所有者は山形県であるが,管理は高湯温泉組合が行い,後藤氏に委託さ れている。
 その為,信夫高湯『ヒゲノ家』の後藤氏と協議の末,後藤氏とRCCとの共同管理 を行う事になった。」
 設置主体が山形県とあるのは、福島県の誤記かもしれません。

 RCCは、この管理の手始めとして1966年を皮切りに、3年連続で、家形 ヒュッテの修理・清掃を東京からこの地に遠征しておこなっています。
 当時は慶応吾妻山荘の設置が決まり、県などが家形ヒュッテの解体・廃止に向 かっていた時期でした。「水辺と山径」によると、福島大学や高校山岳部など、地 元の多くの人々からヒュッテの存続の声が上がり、後藤氏がそのために奔走して いたとのことでした。

 

 1966年といえば、私が、福島市立瀬上小学校6年生のときです。私が、H さんという人から家形ヒュッテのことを初めて聞いたのは、中学2年生ごろです から、ちょうど3年がかりの修理の3年目のことです。
 66年晩秋には、トラックで資材を不動沢付近まで輸送し、そこから18人で 2往復のボッカをして、大量の木材や資材を運び上げたとのこと。「小屋は荒れ に荒れ,今荒廃の一途を辿っている」という状態のヒュッテにとって、貴重な補修 工事だったと感じます。雪崩のあとの外装や床の補修なども行なわれたものと思 われます。

4、1970年の再度の雪崩から、1974年6月の解体まで

 その後、おそらく1969年〜70年ごろに、RCCの管理は途絶えました。
 69年、地元団体などの要請にたいして、福島県は、取り壊し予定の家形ヒュッテ の使用期間を5年間、延長しました。
 しかし、登山者が床板、壁板を燃やして暖をとるなどし、小屋の荒廃はすすみま した。
 1970年3月には、再度の大きな雪崩がガンチャン落としで発生し、ヒュッテ西 側の壁やガラス窓などが大きく破損しました。
RCCが70年11月に見たヒュッテの模様は、次のようでした。
「(雪崩の)その後,応急処置して形を留めるのみ。45年11月20日〜22日,春合宿偵察 に訪れ使用不能。残された板壁は,剥がされ燃されていた。又,ストーブは壊され,管理人 室等も壁板も剥がされ寒々としたものとなる。」

 1972年に、高校3年生の私が、2歳年上のFさん(高校山岳部出身)に同じ道 で出会って、家形ヒュッテを訪れたときに、Fさんは、高校時代に利用したヒュッテ を掃除しようとして登ってきたと話していました。そのFさんは、久しぶりに訪問し たヒュッテの荒廃(再度の荒廃)に驚いていました。このことからも、少なくともそ れ以前、60年代後半の一時期は、家形ヒュッテはある程度、補修と管理がすすめら れた状態だったことがわかります。

 1971年の最初の訪問(高校2年生)から翌72年にかけては、私がもっとも ヒュッテをひんぱんに利用した時期でした。それが、図にある状況の時期です。この 小屋が気に入った私は、高校3年の夏休み、父と2人で高湯→家形ヒュッテ(泊)→家 形山→兵子→姥湯→峠駅の山行も行ないました。今の私と同年代の父は、小屋の様子 に驚き、怖がり、2人で2階に泊まった夜は、風の音に何度も眼を覚まして私を起こし ました。

 

 1974年6月、私は、札幌から帰省して、残雪の吾妻山に登り、家形ヒュッテの 解体の一番の山場に偶然、出会うことになります。
今にして思えば、この解体は、「5年間の存続・利用延長」の期限がちょうど切れた時 期にあたっていました。とはいえ、郷里を含めた多くの登山者、山岳関係団体などが、家 形ヒュッテの存続のために心をよせてきた経緯を知ったのは、私にとって、とてもうれ しいことでした。

 その後、建設された避難小屋は、すでに30年にならんとしており、なんらかの補 修、改築などを経て、2003年現在も利用されています。しかし、太い梁と黒々と光る板 の床の、大きな構えの旧「家形ヒュッテ」の風格には、カマボコ型バラックの現避難小 屋はとうてい及ばないでしょう。
 ガンチャン落としを登り五色沼畔にいたる急坂は、2000年時点では崩壊のため通 行禁止になっているとの情報もあります。私がよく利用して好きなルートだった兵子→三 階滝→姥湯の道も、いまは通行止めになっているとのことです。
                        (2003年8月 記)





 
山の便り、大地の恵み (野原森夫)  
http://trace.kinokoyama.net/