剣岳 長男を背負ってカニのタテバイ

         1984年8月5〜7日  野原森夫、遥子、岳彦、山野、吾妻


 北・中央・南の日本アルプスの数ある山のなかで、第1に登りたい山が、剣岳(299 3メートル)だった。その1つだけでも、どこかの山にもっていったら、山容が1変するような すばらしい大雪渓を東・西両面に幾筋ものばし、雪渓と雪渓の間には登高欲をそそる岩稜 が鋭いピークを重ねてせり上がっている。岩の尾根を攀じり、雪渓を登りつめなければ、 頂に立つことができない山。言い方は好きではないが、日本の山のなかで、剣岳は1番、 日本離れした、アルペン的な山でもある。




剣沢の朝

 明治の後期に当時の参謀本部陸地測量部の手で、全国に3角点の網の目が築かれ、これ をもとに列島全域の地形図が描かれていったとき、3角点設置のための登頂に最後まで抵 抗したもっとも険しい山が、この剣岳だったという歴史(新田次郎「剣岳 点の記」1977 年8月刊による)も、この山の困難さを物語っている。もちろん、現在では、長次郎 が拓いた「長次郎雪渓」「前剣尾根」の2つのルートのどちらにも、岩場の難所には固定 した鎖や太く大きな埋め込みボルトが据えつけられ、とくに前剣尾根はピッケル、ザイル など特別の装備のいらない一般登山ルートになっている。

 そういうわけで、最初の北アルプス登山に剣岳を選んだ気持ちに、迷いはなかった。難 問といえば、この山行では、長男・岳彦(1歳11ヵ月)をかついで行かなければならな いこと。そのためのボッカ役として、一方的な期待感をもって、北大時代の山仲間の新川 吾妻君、山野君の2人に同行 を頼んだ。2人は、ヒマラヤやパタゴニアなど海外遠征の経験もあり、岩の技術も身につ けている。誘いにのってくれた時点で、剣岳登頂の成否は、あとは天候の善し悪しに影響 されるだけとなった。






黒4ダムからケーブルカー

 8月5日、立川駅から特急あずさで信濃大町へ向かう。吾妻君は前夜に国立市内のわが 家に泊まった。山野君は、鹿児島から国鉄を乗り継いで、富山経由で室堂へ入り、合流す ることになっている。

 大町駅からは「立山 黒部アルペン・ルート」で、バスと電気バスで黒部第4ダムへ。 さらにケーブルカー、ロープウェーで立山の東の中腹の大観峰へ上がり、またトンネルの なかを電気バスに乗って、残雪がまばゆい室堂へ抜け出した。

 予定通り山野君と合流し5人パーティーがそろう。3000メートルの峰が並ぶ立山が、高く なった夏の太陽の光をいっぱいに浴びている。と、ここで、岳彦が「うーんっ」と絞り出 すような声を発した。「まずい、うんちだ」。観光客らが固まっているところから、少し 外れた場所へ移り、おむつを換え始める。3000メートルの霊峰にごあいさつの1発。鶴田君 が笑って見下ろしている。この先の、きっと緊張することになる登高を思うと、おむつま でが荷物に加わっているこの山行が、はたしてうまくいくかな、と思う。




岳彦は高度を上げたせいか、さっそくウンチ。

 室堂からは、火口湖と思われる沼や、熱水が湧き出る場所をまわりこみながら登り下り を繰り返して、小広い沢のそばの幕営場に出る(雷鳥平)。ここから別山乗越まで、雷鳥 沢の電光形の急登がはじまる。取りつきは雪渓になっていて、学生らしい夏スキーのグル ープが盛んに滑り下りてくる。




雷鳥沢は、この夏は残雪が豊富。

 見ていると50メートルほど上で、1人が岩を避けきれず、転倒した。まずい。頭を打ったよ うだ。急いでそこまで上がると、女子学生らしいスキーヤーが1人、岩のそばに体を投げ 出すように倒れていて、あとの20人ほどのメンバーが彼女を遠巻きにするようにして、 茫然と見守っている。遥子が、倒れている女性に駆けよった。顔をのぞきこみ、話しかけ ながら、脈もとっている。リーダーらしい男性が近づいてきて「あの、病院の人かなんか なんですか?」。「ええ、看護婦です。本人がしっかりしているようなので、とりあえず は大丈夫だと思いますが、下山してちゃんと診てもらったほうがいいと思います」と遥子 が答えた。

 また、登り始める。相変わらずの電光形の急登で、ダンボール箱に入れた食糧をショイ コにくくりつけた遥子は「重いよう」と声を上げる。私の背中の岳彦だって、体重はもう 15キログラムを超えているんだ。日差しが少しかげりだしたころに、別山乗越の剣御前小屋の 前に着いた。

 剣御前の岩の尾根がのびた先に、初めて、剣岳が鋭く大きな姿を現す。まるで巨大な岩 の塔のような山容だ。本峰の前には前剣が1段低く立ちはだかり、そのはるか山すそを剣 沢の雪渓が斜めに横切り、黒部川の方向に落ち込んでいる。落ち込む先は傾斜を増してい て、ここからは見えない。その剣沢の雪渓のかたわらに、今日の泊まり場の三田平の野営 場があった。野営場は、剣御前に陽の光りをさえぎられ、暗い谷間のなかにある。剣御前 を飛び越えた陽光は、右手の立山別山側の尾根に差し込んで、岩と残雪に赤みを帯びた美 しいコントラストをつくりだしている。




剣沢幕営場




夕ご飯

 目の下の豊富な雪田のなかで、スキーに興じる人たちがいる。私たちは、その間をすり ぬけるようにして野営場までおりた。30張りほど張ってあるテント村の一番、剣岳に近 い側に、テントを設営する。吾妻君、重いテント1式を御苦労さん。夕闇のなかで食事を とり、明日の好天を願って早めにシュラフに入った。




剣沢の枝沢の雪田をトラバースして、稜線へ向かう

 第2日(6日)。日の出前にテントを抜け出し、朝日に染め上げられていく剣岳にむか ってカメラのシャッターを切った。闇につつまれて真っ黒い固まりだった本峰と前剣、そ して平蔵谷の岩稜が、光が差し込むとともに複雑な岩の紋様を現していく。剣岳は、シャ ッターを押すごとに、陽光とガスの演出によって刻々とその姿を変えていった。

 夕べとは反対に、今朝は東からの日差しをうける剣御前側の尾根の残雪が、赤く染まっ ている。岳彦が起き出し、遥子に抱かれた姿を1枚写す。

 快晴だ。空がすっきりと青い。朝食を急いでとり、身軽な装備で出発。でも、私の背中 には相変わらず、15キログラム超の、ときどき声をだす「生きた荷物」がおいかぶさっている。

 剣沢の源頭の雪渓を幾本かトラバースして剣山荘前に出る。ここからが本格的な登りだ 。一服剣の手前では、赤紫のハクサンフウロや橙色のクルマユリが道の両側を飾っていた 。ガレを抜け、このピークを越すと、前剣への登り。ガスが尾根を包みこみ、視界がきか ない。狭いピークに達して休憩していたところで、風にまかれながら、ガスがやや薄くな り始めた。「あと少し」とカメラを取り出すと、ガスが切れ始めて薄ぼんやりした視界の なかに、剣岳の本峰が姿を現す。間近に見上げる本峰は、迫力がある。視界いっぱいに大 きな岩壁が正面に立ちふさがり、頂上はその岩壁のはるか上部のガスの中にある。あのピ ークにほんとうに登れるんだろうか。左手、富山市側も、黒部側同様に岩稜がすっぱりと 切れ落ち、目がくらむようなはるか下方に雪田が輝いていた。




一服剣で




へつり




岳彦は元気

 尾根を右にまいたところで、前方に平滑そうな一枚岩が見えた。ルートは、その岩の中 段をトラバースする形で続いている。岩場の横方向の距離は8メートルくらいと見たが、垂直 方向は見るのもいやになるほど 、深く落ち込んでいる。岩の面には足場になりそうなスタンスが、水平方向につくられて いる。手は、足場と並行に、水平に張られた鎖につかまる形だ。先行する吾妻君は、すで にトラバースにかかった。続いて、山野君。そして、みんなに励まされて、遥子がクリ ア。最後に私と背中の岳彦。足のホールドを効かせるため岩から体を放しかげんにすると 、背中の15キログラム超の「荷物」は空中に大きく振り出される。もちろん、岳彦には周囲の 環境までは自覚がない。手のひらににじんだ汗で鎖がぬるりとするのに、ひやりとさせら れながら、なんとか横断しきった。岳彦に声をかけると「元気だよ」と応 じてくれた。




前剣付近までくると、剣岳は衝立のような途方もない高み。大きい









タテバイの手前




タテバイの一番の岩場。15年後に再訪したら、
この場所はよりやさしい ルートになっていた。


 次の名所は「カニのタテバイ」。尾根を黒部側にまわりこんだところで、足元にガレと それに続く急傾斜の雪渓が見下ろせる場所に出た。そのガレの真上に、切れた数枚の岩場がた ちはだかっていて、これが「タテバイ」。岩には、人が登る手足の間隔にあわせて、鉄製 の長いボルトが打ち込まれており、それが我々を頂上方面へと導くルートだった。

 取りついてみると、60度余りの傾斜。攀じ登る距離が20メートルあり、時間がかかる。高度感も格別で、 ボルトにしがみついて、よせばいいのにおそるおそる見下ろすと、はるか下に後続の登山 者が小さく見える取りつきがあって、さらにその下は急な谷となって数百メートルも落ち込んで いる。「落っこちたら、きっと、何度もバウンドして、姿が見えなくなるな」と思う。「 岳彦の分と2人分の命」を感じながら、必死の思いで「タテバイ」の終了点の岩のテラス に抜け出た。

 岩の尾根をさらに登り、ガレの登りに変わると、上の方から人の声がしてきた。ガレの 登りを終えたところが、頂上の一角だった。登山者が12、3人、先着していた。岳彦を 下ろすと、私はすぐに頂上の反対側に目を向けた。長次郎雪渓を見るためである。




山頂




長次郎雪渓の上部と、八ツ峰

 はるか前方に、視界を斜めに横断する、恐竜のステゴザウルスを思わせる岩の尾根があ った。尾根の手前に、雪のスロープがあり、これが長次郎雪渓だった。雪渓は、途中、大 きな岩を包み込むように流れくだり、傾斜をさらにきつくして下降、2キロメートルほどはあるか と思われるその末端は両側を岩の尾根にはさまれ、幅をせばめて、剣沢へと落ち込んでい た。明治40年7月、長次郎は陸地測量部の測量官・柴崎芳太郎らを案内して、この雪渓 を登頂ルートとして見いだして、剣岳への「初登頂」(江戸時代以前の信仰登山者につぐ 登頂)を果たしている。岩稜にはさまれて急角度でせり上がる長次郎雪渓を目の前すると 、岩の尾根のルートからの2度の失敗をものともせず、新たに「雪の道」を見出して山頂 に挑んだあくなき闘争心に敬服させられた。




下降

 天気は、いぜん上々だった。下降は景色を堪能しながら、のんびり、しっかり、高度を 下げた。カニのヨコバイは、タテバイよりも高度感があった。
 前剣の下降では、先行する登山者の間で落石事故があり、重傷者が出たばかりと のことだった。ここからはいっそう下降に慎重を期し、ガレや急な岩場では、急ぐ登山者 を先にやり、間隔も大きくあけて、落石に注意しながら高度を下げた。




剣山荘前で、一休み

 剣沢の源頭部では、もう野営場が目の前なので、チングルマ、ハクサンイチゲなどの高 山植物をカメラに収める。テントにたどりついて岳彦を下ろすと、なんだか顔が妙に赤い 。「日焼けさせたかな?」などと話し合ったが、夕食のころには、熱まで出てきた。背中 で太陽にあぶられ続けた顔は、軽い火ぶくれのようにこんがりと焼け、かわいそうなくら いになってしまった。歌もうたい、「元気だよぅー」と繰り返していたので、油断をして しまった。夜のテントの中では、顔が痛いのか、何度も目をさまし、泣いていた。









新室堂乗越への下降

 下山の日(7日)は、大日岳方面へ縦走する吾妻君たちにつきあって、室堂乗越までい っしょに行く。花が多くて、角度が変わるにつれて剣岳の姿が変わっていく様子も見るこ とができて、いいコースだった。2人と別れ、通り雨に追われるように室堂へ。黒四ダム のサイトで遥子が撮った写真を見たら、岳彦だけでなく私の顔も、こんがりと焼けていた。











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野原 森夫