風雨の晴れ間の水晶岳

    1997年8月4日〜8日     家族登山



入山3日め(8月7日)、黒部源流の登路を登りきって、岩苔乗越から水晶岳

 水晶岳(黒岳)は北アルプスの最奥といっていい場所、黒部川の 最上流地域に位置する山である。標高も2986メートルと、南部の槍・ 穂高連峰や北部の剣・立山連峰を別にすれば、北アルプスの中央部 では1番高い。

 この山にどうしても登りたいと思ったのは、一昨年(1995年 )の夏、雲ノ平から夕映えの水晶岳を眺めたときからだった。水晶 岳は夕陽に照らされて金色に染まったガスに包まれていた。風がガ スを吹き払うと、淡い金色のベールの下から黒々とした岩肌が現れ る。ガスがすべて上空へ吹き払われたときには、金色と茜色の空を バックに、水晶岳の鋼のような岩の峰の連なりが浮かび上がった。 「一生の思い出になる景色を見た」といったのは当時中学1年生だ った長男の岳彦だが、私も、この山が静かな人気を得ている理由が 納得できる気がした。

 このとき、1995年の登山では、北ノ俣岳(神岡新道)から黒 部五郎岳、三俣蓮華岳、雲ノ平への縦走の途中に水晶岳にアタック する予定を組んでいたが、雨に降られ、計画した日程も余裕がなく て、予定の登頂を割愛せざるをえなかった。

 2度めの昨年(1996年)は、最初から水晶岳登山を第一目標 にして新穂高温泉から入り、双六沼にベースキャンプを張った。と ころがこのときも、遥子に貧血症からくる高度障害の症状が出て、 水晶岳のアタックは途中の鷲羽岳の登山に変更になった。

 水晶岳は地理的にだけではなく、我が家にとっては特別に「遠い 山」であり、このつぎこそはその頂に立ってみたい山になっていた。

 そして今年(1997年)、私は、「持病」の高山病対策の体づくり を目的に、近所のお宮の階段昇りやランニングに励んだ。期間は山 中4泊5日とし、食糧は6日分用意した。入山は、昨年と同じ新穂 高からのコースとし、水晶岳の登山とともに黒部川の源流部(祖父 沢、黒部五郎沢)での釣りや、笠ヶ岳への縦走を組み込んだ。これ らのプランは天候や体調に合わせて変更・選択し、なんとか水晶岳 登山だけはやりとげたいというのが胸のうちだった。

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8月4日 夜に新穂高温泉に移動

 8月4日夜9時、あきる野市を出発。5日の午前0時すぎに沢渡 から安房峠の登りにかかると、道路わきの木々は強風にはげしくあ おられ、車のフロントガラスを雨がたたくような、ひどい天気だっ た。予定通り5日午前1時半に新穂高温泉の村営駐車場に到着した が、風雨が強くて車から降りられない。子どもたちは車内でシュラ フに入り、私たちは雨がようやく小降りになったところで、スペア の2人用のテントを車のわきに設営して、その中で横になった。駐 車場のアスファルトの上を水が流れ、そこに張ったテントのマット レスの下も水が流れ下っていく。増水した蒲田川も激しい水音を響 かせ、これにテントの布地をたたく雨音も加わって、文字通りの仮 眠となった。


8月5日 風雨でワサビ平小屋で停滞

 5日は夜が明けたあとも、風雨はやまなかった。テントで作った おじや(鮭雑炊)と果物の朝食を車内でとり、雨具に身をかためて 出発。今日はできれば鏡平小屋(標高2290メートル)まででも進んで おきたかった。

 

4人のなかで一番の重い荷を背負っているのは、今年、背丈が私 に並んだ岳彦(中学3年)だろう。食糧をつめたプラスチック・ケ ースを3箱(3日分)背負い、他にガス・ボンベ(カートリッジ) の大1缶と水を2〜3リットル、運んでいる。峻二(小学6年)の ザックはシュラフ3つと軽量だが、今回は沢コースを組み入れてい るので渓流シューズを2組、上乗せされている。

 左俣川の林道歩きでも雨はときおり激しく降りかかる。それに入 山日とあってザックは相当に重い。笠ヶ岳への新道付近で2カ所の 大きな崖崩れのあとをぬけ、1時間半ほどかかって、ワサビ平小屋 (標高1400メートル)に着いた。

 前線が活発化しているだけでなく、台風11号が沖縄に接近しよ うとしていた。入山してくる登山者はほとんど見られず、小屋に立 ち寄るのは下山のグループばかりだった。私たちは、雨を避けラー メンをすすりながら、ここで模様ながめをしていたが、下山してく る登山者の話では、登山道は水が川のように流れる状態で、とくに シシウドヶ原(2090メートル)から秩父沢の渡渉点(1800メートル)に かけては、沢の増水で膝下までの渡渉を幾度も強いられたという。 雨はいぜん、断続的に激しく降る。昼前の時点でワサビ平小屋に停 滞、素泊まりすることに決めた。

 午後になって、双六小屋からの下山者も小屋に立ち寄り始めた。 その話だと、昨夜の風雨で双六沼の幕営場では20張りほどのテン トが倒されて、未明から早朝にかけてたくさんの登山者が双六小屋 に退避したという。私たちが翌日、シシウドヶ原ですれちがった登 山者も、その災難にあった人達だった。彼らは購入まもないゴアテ ックスのドームテント(フライ付、I社製)で幕営していて、「3 人でフレームを押さえて耐えていたが、ついにボキッと音がしてフ レームを折られてしまった」と話していた。風は、双六小屋の人の 話だと「風速30メートルあった」とのこと。黒部五郎小屋のある黒部乗 越で幕営した人達も風雨にあい、テント場は乗越から1段低い場所 にあったため豪雨が水流となってテント場を襲い、水深が50aに もなって、衰弱した1人がまだ小屋に収容されているとのことだっ た。

 夕方になってワサビ平小屋には若い2人の登山者も立ち寄ったが 、この2人は三俣蓮華岳の幕営場で強風に見舞われ、テントのポー ルをささえて耐えていたものの、ついにポールを折られてしまった 、と話してくれた。彼らはテントを壊されたので、剣岳から槍ケ岳 への縦走を途中で切り上げて下山してきたのだという。

 このときは、私たちも「去年泊まった双六岳の一帯で、そんなこ とが起きたのか」と不安な気持ちにさせられたものの、2日後に私 たちが同じ運命に遇うことになるとは予想すらしなかった。


8月6日 ワサビ平小屋から、双六沼の天場へ

 6日、停滞・待機のかいあって、夕べまでの強い雨が上がった。 ワサビ平小屋の前でミネストローネのスープ(キャベツ、ベーコン 入り)とパン、チーズ、リンゴなどの朝食をとり、身づくろいをし て6時45分に出発した。

 途中、林道上を横断して沢水が流れ落ちるところがあったが、す でに増水は止んでいる。秩父沢まであがると、ここも普段よりやや 多めというくらいの水量だった。西鎌尾根から槍ケ岳への稜線も見 えてきた。穂高連峰の展望は雲にさえぎられて得られなかったけれ ども、弓折岳や大ノマ乗越方面の稜線の霧も上へ上へと晴れ上がっ ていくのがわかった。雨が落ちてこないだけでなく、日焼けが心配 になるような天気になった。

 シシウドヶ原まで登ると、今年は雪解けが早かったために、シシ ウドやイタドリが背丈を伸ばし、去年とはまったくちがって、緑の 草むらが広がっていた。鏡平に上がる小沢でも、昨年踏みしめた大 きな雪田はすでに消えて、ぬかるむ湿地でコバイケイソウやキヌガ サソウがすでに花の終わりを迎えていた。

 鏡平の小屋でラーメンをすする。2日前の風雨によるテント倒壊 の話になり、若い従業員さんが「双六は風が抜ける窓のような地形 ですから、普段でも風が強いんですよ。小屋を修理する板金屋さん も、どんなに工夫して屋根のトタンをはっても、雨水が滲みだして 漏れてしまうと嘆いているくらいです。テントが倒されるなんてこ とは珍しいことではないんです」とちょっと他人事のように解説し てくれた。私たちも子どもも、この話にまた不安をかきたてられた が、それでもまさか自分たちは、そんな不運には見舞われないだろ うと思うことにした。

 鏡平から双六への登り。ここからはガスと、ときおり降りかかる 雨の世界となった。標高2592メートルの弓折岳への稜線に出る登りは 、今回の登山での高度障害の出方が占えると予想していたところ。 結果はきびしくて、稜線が近づくにつれて呼吸が荒くなり、頭痛が 始まった。稜線上の2635メートルの小ピークのあたりでは、遥子に頭 痛の痛み止めの薬をもらう。これは20分ほどで効いてきて、ずい ぶん楽になった。でも息が切れ、倦怠感もひどい。「荷物を替わっ てあげようか」という遥子の言葉に甘えて、双六沼の幕営場まで荷 物を交換した。ガスの切れ間に双六岳のずんぐりした山体も確認で きるようになって、休み休み、体を励ましつつ、テントが立ち並ぶ 双六沼畔へすすんだ。

 午後2時20分、標高2550メートルの双六沼に到着。子どもたちは 今年も、先行して到着し、傾斜の少ないいい天場をさがしていてく れた。テントを設営したあと、風対策を考え、石を積んで高さ50 センチほどの石垣を風上の双六谷側に築いた。

 夕食は、鳥肉照り焼き山椒風味と、ホウレンソウたっぷりの味噌 汁、野菜サラダ。テントを設営した直後から、ときおり雨が激しく 降るようになったが、日没後は断続的な強い雨といった空模様にな ってきた。雨がテントをたたくと、中ではすごい音が続く。峻二は 不安げな目を向けてくるが、「大丈夫さ、今日は風上側に大きなテ ントもあるし、そんな強い風は吹かないよ」と励ましてやった。明 日もこんな天気なら、水晶岳のピストン登山はできなくなる。悪い 天候のなか、あきらめずにここまで前進してきたが、登頂は今年も またおあずけかもしれないと思った。

 夜は、テントの下から水が流れ込んでくるのが心配なほど、強い 雨となった。

8月7日 双六沼から、水晶岳をピストン

 7日、入山3日め。前線が南下したようで、雨はあがった。夕べ 双六小屋で見た天気予報では雨が少し残るかもしれないと思ったが 、予想以上の好天。ガスの上空にはときおり青空も顔をのぞかせる 天気となった。朝食はタラコ・スパゲティとコーン・スープ、キュ ウイ・フルーツ。「往復11時間はかかるから、帰ってくるのは夕 方6時ごろになるよ。長丁場になるけれど、がんばろうね」と話し て、今日こそ水晶岳に登ろうと身仕度をする。今日1日の食糧など の荷物は岳彦と私の2つのザックにまとめた。

 午前6時55分、出発。双六小屋からは、昨年もたどったトラバ ース道に入り、双六岳と丸山はまいていく。雪解けが早くて残雪が 少ない分、高山植物は盛夏の様相で、道の両側にはお花畑が延々と 展開する。去年、丸山からの下り(中道)で見つけた黒ユリが数株 、分岐点からトラバース道に折れてすぐの道脇に咲いていたのも、 今年の発見。そういえば昨日も、弓折岳からの稜線のお花畑で、ミ ヤマアケボノソウなど比較的見つけにくい花が幾株も見られた。雪 の少ない年の夏は、植物の世界が豊かになるのだろうか? 遥子は 、「去年は体がつらくて花はほとんど目に入らなかった。ここは本 当に素敵なルートだね」と話す。

 三俣蓮華岳の山頂直下の分岐点までトラバース道の最後の登り。 鷲羽岳が見え隠れしていたが、分岐点に登りついて北側、黒部源流 地域の展望が開けると、ガスが次第に薄くなって水晶岳も姿を現し てくれた。鷲羽乗越に建つ三俣山荘までの、ひと下りのあいだに、 上空には青空が広がり始め、絶好の登頂日和になってきた。それで も水晶岳は、まだあんなに遠い。「ほんとうに行って帰って来れる の?」と遥子や子どもたちが言う。「天気はもちそうだから、あと は時間との勝負だ」と話しながら、三俣の幕営場から黒部川の源流 コースに入る。


三俣蓮華岳を背に、黒部川の源頭部を上がる


 源流コースは水晶岳方面への最短時間のルートになっている。稜 線上のワリモ岳の北側の分岐までで計ると、源流コースは登高分が 標高差にして350メートル。鷲羽岳を越す稜線ルートだと登高分は鷲羽 岳だけで425メートル、ワリモ岳が90メートル、他の小ピークもあわせると 計520〜530メートルはあり、とくに鷲羽岳への電光形の登りはこれ だけで1時間半はかかってしまう。私たちは三俣山荘からゆっくり 歩いて休みもいれて1時間22分で岩苔乗越の鞍部に達し、そこか ら10分余りの登りでワリモ分岐を通過した。

 そのうえ源流コースは期待通りの美しい景観を見せてくれた。幅 が2〜3メートルとなった黒部川の水流を両岸から包む緑の草むらと花畑 。あたりには大小の岩石が点在し、湿地をつたって幾筋もの小沢が 流れ込んでいる。花で目立つのはクルマユリの濃いオレンジ色、キ ンバイの黄、ハクサンフウロの紫。枝沢の水たまりには、クレソン (オランダミズガラシ)そっくりの植物も繁殖していて、茎の先を かじってみると、味もクレソンそのもの。日本の在来種なら前に高 尾山で採取したオオバタネツケバナなどの類種があるが、これはど う見てもクレソンにしか見えなかった。だれかの弁当のサラダに混 じって運ばれてきたのか?

 スノーブリッジは一昨年よりも小さくなっていたが、左手の祖父 岳の側には、稜線直下に細長く白く輝く雪田が残っていた。私たち は水音やそれらの景観を楽しみながらゆっくりと源流コースを登り つめ、わずか3つのパーティーとすれ違っただけで、岩苔乗越に到 達した。

 先行した岳彦と峻二が声を上げている。「水晶岳がすぐ前にある よ」。乗越に着いてみると、水晶岳は大きな山体をドーンと目の前 に置いて立ちはだかっていた。頂上部の岩の尾根は荒々しく高度感 があるけれども、おやっと思ったのは、ハイマツと灌木でおおわれ た緑の山すそが岩苔小谷にむかってのびやかに広がっていること。 真正面から対峙した雲ノ平からの男性的な水晶岳とは大きく違う、 もう1つの水晶岳がそこにあった。岩苔小谷の源頭では、ヒヨコの ように小さい雷鳥の雛が3羽、母親に守られて遊んでいた。


赤岳をこえて、水晶岳へすすむ。右奥は、赤牛岳

 ワリモ分岐から二重山稜となった鞍部を通過して赤岳(2910 メートル余)へ。この稜線の先に立つ水晶岳は、不規則な岩の固まりを積 み上げたような、また別の山の姿に変わっていた。岩の小ピークを 2つ3つと乗り越し回り込んでいくと、水晶岳は東沢側(東面)が スッパリと切れ落ちた岩の断崖となり、豊富な雪田が沢の源頭を埋 めていた。この山は見る角度によって、ほんとうに様々に姿を変え る。岳彦と峻二は、山頂が近づくと「水晶さがし」を始め、小指の 先くらいから小さなビスケットくらいの石の固まりをポケットにた めこんでいた。


水晶岳から、黒部五郎岳


水晶岳から、北ノ俣岳


水晶岳から、三俣蓮華岳、鷲羽岳


水晶岳から、烏帽子岳、三ツ岳、野口五郎岳

 午後1時10分、私たちは2986メートルの水晶岳の頂に立った。

 山頂では、朝、双六沼を発つときには予想もしなかった、素晴ら しい展望が待っていた。はるか北の彼方に非対象型の3角形の白馬 岳が見える。その脇には旭岳、そして雪倉岳、朝日岳にいたる山々 まではっきりと見える。白馬岳から南へ、五竜岳、鹿島槍ケ岳、針 ノ木岳、烏帽子岳、そして目の前に膨大な山容で横たわる野口五郎 岳へといたる。

 野口五郎岳と水晶岳の間を流れ下る東沢の先には、青い水をたた えた黒部湖と黒四ダムも見下ろせた。

 立山は岩の固まりのようで、とても立派に見える。その左の肩か らは剣岳が鋭角的に立ち上がっていた。

 西に目をむけると、大きな薬師岳から太郎兵衛平、北ノ俣岳、黒 部五郎岳、そして三俣蓮華岳の先には笠ヶ岳も浮かんでいた。なか でも黒部五郎岳はこの方角ではとびきり大きく、個性的な山容で、 「あっちの方が高いのかな」と遥子が感じてしまうほど魅力的な山 だった。

 北アルプスのすべてを見渡せるような大展望のなかで、ガスで視 界を閉ざしているのは槍・穂高連峰だけだった。水晶岳という1番 登りたかった山の山頂に立って、私たちは、この最奥の山にふさわ しい、山また山の展望を満喫することができた。

 私は、山頂からすっぱり切れ落ちている東沢の源頭部も見下ろし たが、そこは下から攀じることは自分にはとうてい無理な断崖だっ た。大正年間(1910年代)に田部重治らは、東沢を繰り返し遡 行・下降し、この水晶岳で水晶を拾っている。最初の東沢下降では 、赤岳との鞍部(東沢側の窪地)に幕営し、翌日は悪天候のなかを 「東沢めがけて雪渓をすべったりころんだりして下った」。そして 増水した沢を、流木を橋にして「足の戦(おのの)く」ような渡渉 をしつつ下降、黒部川本流との合流点から1里ほどのところの小さ な広場で「方1間」ほどの大きな焚き火をして野営した(「新編 山と渓谷」岩波文庫 1993年刊)。今の水晶小屋に近い位置へ なら、東沢から登り上がることも可能だろう。いつか黒部湖から遡 行して水晶岳へ登ってみたい。

 山頂は10分余りの後に出発(午後1時23分)。ワリモ分岐ま で引き返すと小雨をともなった冷たい風が吹きはじめ、鷲羽岳にも 、そして水晶岳にも、暗いガスがかかり始めた。「タッチの差で、 ほんとうにいいときに、山頂に行けたのね」と遥子がいう。雲はど んどん低くなる。時間の短縮だけでなく、こんどは冷たい風の稜線 歩きを嫌って、私たちは再び源流コースに入り込んだ。

 往路の源頭の登りでは、今日も頭痛がきて、鎮痛剤を飲んでいた が、帰路も三俣山荘への登りは体がだるくて、息が切れて、つらか った。それでも休憩はごくわずかしかとらず、岩苔乗越から1時間 24分で3俣山荘に到着。時刻は午後3時半近く、早く出発すべき だったが、弱音をいって大休止をもらい、カレーライスやラーメン を食べて、あと2時間余の行程にそなえた。

 午後4時前、三俣山荘発。体はもうぼろぼろ。3俣蓮華岳の山頂 直下までの約30分の登り返しがつらい。トラバース道に入ると雨 が強まり、あたりは暗くなりだして、4人とも無口になる。長く、 夕暮れのような暗い道だった。岳彦も峻二も「1日で往復するのは 無謀だった」といい、峻二は先が見えず、現在地が確認できない不 安に泣きそうな顔をした。そんな3人を遥子は元気に励ますが、下 山してから、このとき遥子がひどい(直径4センチ!)靴ずれに両 足の踵をやられ、苦痛に耐えていたことを知った。でも、水晶岳の 山頂を踏むのには、こんどの気象条件では1日間の往復登山しか方 法がなかったということは、みんながわかっていたはず………。

 双六沼を見下ろすところまできて、はるか下方の幕営地に私たち の青いテントが無事立っていたことを確認したときはほっとした。 午後6時10分、幕営場に帰る。行動時間は11時間15分に達し ていた。

 みんな疲れきり、三俣山荘でカロリーを補給してきたせいもあっ て、この夜はすぐには夕食の支度にかかる気がしなかった。「それ じゃあ、果物を食べて元気をだそうよ」と、遥子が梨とりんごの皮 をむき始める。「今日のメニューはモツ鍋だよ。ねぎとかナスもい れて、あったかくして食べようね。御飯は食べれなくても、これは 力が出るよ」と、また遥子が言うので、2人で調理にかかった。ニ ンニクのパンチの効いたいい匂い。ぐつぐつ煮始めると、岳彦と峻二 もコッフェルをのぞきこんだ。おわんにたっぷり1杯ずつ食べて 、クラッカーをかじり、4人は元気を取り戻した。

 小屋のテレビの天気予報は、夕方前線が通過するが、その後回復 、明日は好天、と告げていた。後片付けを終え、シュラフにくるま って、私たちも明日の笠ヶ岳への縦走を楽しみに体を横にした。

8月7日夜 強風の夜が始まる

 夜の7時45分ごろだった。突然、雨が強くなり始め、双六谷か らテントの壁が大きくたわむような強い風が吹き始めた。「ヒュー ウー」と張り綱か何かが風切り音を上げ、周囲のテントではフライ のすそをあおられて、「バッバッバッバッ」とかなり大きな音をた てるものも出てきた。遥子はすでに体を起こして、テントの壁とフ レームを押さえにかかっている。「うちのテントは風除けの石垣を 積んだから大丈夫だよ」といったが、風ではげしくたわむテントの 壁には驚いてしまう。2人でテントを守る態勢に入った。

 猛烈な風が大粒の雨をともなって断続的に襲いかかってくる。「 石垣をもっと高く積んだ場所に、今朝のうちにテントを移動してお けばよかった」と後悔したが、今朝は今朝で、場所は空いても、水 晶岳への行程を考えて移動するゆとりはなかったのだ。しかも、昨 夜と違うのは、谷から吹いてくる風をまともにうける最前面にわれ われのテントが位置していること。すぐ後ろに設営された大型テン トでさえフライがはぎ取られんばかりに風にあおられていることが 、激しい音からわかった。

 30分ばかり風雨との格闘を続けたころ、あちこちのテントから 大きな声が聞こえ始め、人が出てきて小屋へ向かったり、テントを 補強している様子が伝わってきた。すでに目を覚ましていた岳彦と 峻二にも手伝ってもらい、風の来襲にそなえる。

 ドームテントはもともと風に押されて柔軟に変形することで倒壊 を避ける構造になっているが、継ぎ合わせたフレームは極端な力が 加わると外れたり、曲がったりするし、張り綱と布地の結合部だっ て強い張力にどこまで耐えられるかわからない。

 風は10〜15秒ばかりの間をおいて20〜40秒間、吹き荒れ る。「それきた」と4人の8本の手でフレームと張り綱の位置を中 心に風の圧力に対抗してテントの変形を抑えるが、両手で支えよう とすると体がズズッと後ろにずり下がるほど、風の力は猛烈に強い 。9時をまわってもこの状態は変わらず、「予報通り、前線が通過 するということなら、あと1時間も頑張れば、おさまるはずなのに な」と不安な会話をかわした。

 実際、夜10時を回って、風雨はおさまり始めた。この日の水晶岳 往復の長時間の行動で疲れ切っていた私たちは、いったん体を横に した。20〜30分ほど眠っただろうか。「完全におさまるまでと ても眠れない」といっていた遥子が、なにか悲痛な声を上げたのが 聞こえた。この猛烈な風の唸り声はなんだ。前線が北へ抜けたはず なのに、どうして、また吹き始めたんだ。他のテントからも叫び声 がしている。「岳彦、峻二、起きて支えるんだ」と声をかけると、 2人も飛び起きて、テントを守る態勢に入った。

 今度の風は格段に強かった。雨もさらに粒が大きくなったようだ 。テントをささえていると、ヘッドランプの灯にすかされて、テン トの布地から何か煙のような細かいものが、あちこちから舞い上が り、漂ってくるのが見える。それはみな、風と雨の圧力で布地の目 をくぐりぬけてきた水の粒子だった。テントの布地は風圧との長い 格闘で伸び始めて、瞬間的に風が収まるとだらりとたわんだ。時刻 は11時をまわっていた。風雨の間隔はどんどん狭まり、空白の時 間は10秒ももたなくなって、間断なくテントを襲う状態になって いた。それよりも怖かったのは、さきほどよりも風と雨の強さが激 しくなっていることが、はっきりとわかることだった。あちこちの テントからまた悲鳴に近い声が聞こえたようだ。もう雨と風の音が 激しすぎて、よく聞き取れない。

 峻二が、「お父さん、もうだめだね」と健気にしっかりした声で いう。「このテント、もうもたないね」。実際、こんな状態が続い たのでは、みんな眠ることはできないし、体がまいって明日の行動 はできなくなってしまう。

 「よし、それじゃ、脱出にかかるか」。小休止の前に相談してい た「もしも」のことを、実行に移すことにした。遥子、峻二、岳彦 、私の順で雨具をつけ、遥子はシュラフをすべて岳彦のザックに収 納した。時刻は夜12時近い。まず私がテントを出て、100メートルほ ど離れた双六小屋まで行く。玄関から戸を開けて入るが、呼んでも 人は出てこない。でも、とりあえず玄関の中にでも避難は可能と考 え、テントにもどる。

 全員が靴をはき、まず遥子と峻二が脱出。私と岳彦は、小屋にも っていく食糧や装備、マットレスを別のザックにつめ、残していく 装備を雨がふりかかってもいいように防水の大型タッパーや袋に入 れてから、テントを出た。テントはフレームの一端を外して、地べ たに伏せるように倒し、その上に石をのせた。小屋に向かう途中、 周囲のテントを確認したが、すぐ隣のテントはフライシートを完全 に剥がされて、インナーテントが風雨にむき出しにされて激しくあ おられている。どこのテントでも灯がともり、フレームやポールを 支えているのか、ときおり声が飛び交っていた。

 双六小屋では玄関の靴置き場の床のスペースに子どもたちを寝か せた。玄関先にヘッドランプの灯が見えたと思ったら、雨具がびし ょ濡れの女性が入ってきた。大学のグループで、やはりテントが危 うくて小屋に避難したいという。この夜はどのテントも同じような 格闘をしていたようで、翌朝、小屋で会話した若い夫婦は、テント を一晩中支えていて結局一睡もできず、一日小屋に停滞してから下 山すると話していた。

 日付が変わってからも、風はさらに強くなった。私たちは朝4時 に朝食の支度に起きた従業員の人に事情を話して、談話室に移して もらい、そこでやっと2時間ほどの仮眠をとることができた。その 朝の双六小屋の談話室と玄関は、小屋の宿泊者を中心に風雨を避け て小屋に待機する人たちで一杯になった。

8月8日 双六小屋から、新穂高へ下山

 8日。天気予報は台風11号が9州の西の海上を北上中で、日本 海を北東にすすむと告げていた。しかし前線も北上するため、今日 午後には岐阜、富山地方でも天気は回復に向かうという。私たちは 前夜の睡眠がとれていないため、笠ヶ岳に今日移動することはでき なくなり、予定の縦走はあきらめることにした。笠ヶ岳に縦走でき ないのなら、鏡平コースで下山することになる。それを今日にする か、明日に延ばすか。明日が晴れるならいいが、日本海に入る台風 が前線をさらに刺激することはないのかどうか。一日下山を延ばし た結果、大雨で足止めされては、たまらない。

 結局、昼前に天候をみきわめて可能なら下山し、増水の難所の秩 父沢を越えることにした。

 遥子はこのときから、「今夜は新穂高まで下って温泉だ」と主張 した。眠っていない上に、入山後ずっと高山病の症状にいじめられ ている私は、「とにかくワサビ平まで。先はそのうえで」と主張。 餅とベーコン入りのラーメンで腹ごしらえした4人は、雨具を着込 み、午前10時45分、風が強い双六の鞍部を発って、まず鏡平をめ ざした。

 弓折岳への縦走路に出ると、風雨はかなり弱くなった。下山とい っても濡れたテントはずっしりと重く、残った食糧もあり、体はき つい。頭痛がまた出てきたので、薬をもらったが、息が切れてペー スはちっとも上がらない。20分たらずで休憩し息を整えてはまた 歩いた。

 鏡平には午後1時着。大休止を頼み込んで横になった。昼食をと らないといけないのに、食欲もない。ところが50分休んでまた歩 きだしてみると、突然に頭痛も息の乱れもとれて、体が絶好調にな っている。標高2250メートルまで下がってきたので、濃い空気が体を 癒してくれたのか。遥子は「標高2000メートルの男」などと攻撃する が、こういう「症状の急な好転」はいつかの仙丈岳や燕岳のときも ふくめ、いつものことだ。とにかくここからは寝不足も荷物もまっ たく苦にならなくなって、いいピッチで歩き、休憩も入れて1時間 30分で秩父沢まで到達した。「新穂高まで下って温泉だ」は、現 実のものとなってきた。

 ワサビ平への下降。林道へ合流する川原で、右手の崖から土砂崩 れの跡があった。ブナの太い木が何本も、折られて散乱している。 そのうちの古い幹の1本に、きのこがいっぱい付いていた。登山道 から7〜8メートルしか離れていないところ。近寄って確かめると、やは りヒラタケだった。帽子を脱いでそのなかに押し込めるだけ収穫し て、3人のあとを追った。途中、大粒のノウゴウイチゴを見つけて 首をかしげている40歳前後の女性4人のグループがいたので、名 前と食べられることを教えてあげると、彼女らはすぐに口に放り込 んでいた。

 ワサビ平小屋に4時25分着。6時前に新穂高まで降りないと、 宿の予約が心配だ。靴を濡らしたせいもあって、峻二以外はみな足 に大小の豆をいくつかつくり、その痛みにたえつつ、長い林道を歩 き下った。

 午後5時35分に新穂高に下山。この夜は、昨年も泊まった平湯 の民宿に駆け込みで宿泊。翌9日は神岡新道入り口の打保谷川で渓 流釣りをしたあと、夜は福地温泉の予約していた宿に泊まって、足 と全身の痛みを癒した。林道で採ったヒラタケは、宿でしょう油煮 にして保存し、帰宅してから夕御飯のおかずやベーコン・野菜の炒 め煮などで大事に味わった。




※今回の山行では、高度障害(高山病症状)が昨年までよりも長 い期間つづいてあらわれた。

3000メートル以下の高度でなら、いっ たん2500メートル程度で体をならせば対応できるはずだったが、今 回は、2日め(1100メートル→2600メートル)、3日め(2500メートル →2986メートル→2500メートル)、4日め(2500メートル→下山)の3 日間にわたって、頭痛や呼吸のひどい乱れなどの症状が長い時間 続いた。頭痛薬が痛みを抑えるのに有効なことはわかったが、倦 怠感や呼吸の乱れは変わらなかった。

下山日の症状は、最初は嵐 による寝不足かとも思ったが、疲れが出てくるはずの午後になっ て、高度を下げてから一気に回復したことからも、やはり高度の 影響だったと思われる。とくに秩父沢まで下ってからは、空気の 濃さを体感できるような感じだった。

 トレーニング面では昨年よ りは不足したが、ランニングをしても翌日に筋肉の痛みが出なく なるだけ脚力は鍛えたし、持久的にも一定の距離を楽に走れる程 度の体づくりはしてきたはずだった。今後、ある時期には、荷物 の重い幕営山行はむずかしくなってくるのではないか、という懸 念ももった。





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野原 森夫