春の尾瀬 ぐるっと一巡り

1987年5月




 2年前にでかけた春の尾瀬を、もっとゆったりした日程で廻ってきたい という思いがかなった。

 立川を午前2時半に発って、登山口の大清水の駐車場で朝ご飯にする。例年な ら、一の瀬までの林道で残雪の上にのるはずだが、この冬が暖冬だったので乾い たジャリ道を歩くことになった。林道わきの小堀を流れる雪融けの水音が気持ち いい。車でぐっすり眠ってきたのに、岳彦は道端にすわりこんだり、小石を拾っ たりと、さんぎんにぐずる。睡眠1時間半の自分も、ひと休みして峻二を背中か ら降ろし、草むらに寝転がったら、一瞬、意識がなくなった。「お父さん、はや くおいでよ−」と遠くで岳彦が呼ぶ声で目を覚ますと、指をくわえたいつもの格 好で、峻二がベビー・キャリアの上からこちらの寝顔をじっとみつめていた。

 残雪は、一の瀬から登山道に入ってすぐに現れる。岳彦は俄然、調子が出て、 後をついていくのが大変なほどのピッチで登る。4人分の荷物のほとんどを一人 でかついだ遥子も、元気な岳彦にほっとして後に続く。積雪が1メートルを超す ほどになって、急な登りが緩くなると、標高1762メートルの三平峠だ。この 峠道は江戸時代以前から、上州と会津・桧枝岐を結ぶ連絡道として使われてきた という。黒木の森のなかの峠は、いまでも暗く、寂しい。樹間に見え隠れする燧ケ岳 に当時の人々も見入ったのだろう。

 尾瀬沼はまだ白く、沼をおおっていた氷雪が融けかかったところ。岸辺近く には「赤シボ」(赤いにじみ)が出ていた。



「ヒャッホウッ、ソレー」と歓声を発して、その尾瀬沼めがけて三平峠をソリ で滑り降りる。長蔵小屋につくと、4人とも部屋にごろんと寝転がって、ひと眠 りした。前回、お世話になった平野紀子さんは、用事で下へ降りていてお会いできなかった。

 2日日、沼の北岸の道をすすみ、沼尻(ぬしり)の休憩所で一個100円の大 福もちを4人で6個食べる。ここから樹林帝をいったん、抜けたところで小広い 箱庭のような白砂湿原に出るが、ここも雪の下だ。黒木の森をぬってゆっくりと 下る道が、明るいブナの林に入ると、下田代十字路の山小屋の「集落」が見えて くる。その先に、残雪と枯れ草でまだら模様の尾瀬ガ原が広がっている。ここま ではソリに乗ったり、歩いたりだった岳彦も、ここからは長い木道歩きだ。しっ かり、がっちり、昼食をとって出発。



 雨が傘に降りかかるが、峻ニは背中でまた眠り始めた。「ワーツ、木の橋がず っとつづいている」と、岳彦は元気だ。振り返ると、木道の向こうの燧ケ岳は山 腹までガスに包まれ、前方、至仏山方向に向かう木道も、霧の中にかき消えてい る。すれ違う人もまだ少なく、尾瀬ガ原は静かだった。

 白樺の拠水林に両岸をはさまれた六兵衛堀を渡り、ブナが主体の拠水林に包ま れた沼尻川を越える。拠水林は、沢水が上流から土砂と樹木の種子を運んできて つくられるが、泥土のなかでも根が腐らない山の樹木の生命力はすごい。これだ けの大きな川が何本も流れている尾瀬ガ原の広さも、またすごい。

 「竜宮」を越えると、池とうが増えて、木道は体重をかけるとズズーツと沈み こむところも出てくる。木道そのものが雪解け水で流れかかっていたり、 シャーベット状の雪に覆われた深みに浮いているところもある。 シーズン前で、未整備だから、しょうがない。と、水中 に木道が没しているところに出て、岳彦が進退きわまった。背負おうか、行かせ るか、ちゅうちょした瞬間、ドボーン!と岳彦の足は深く、冷たい水の中へ。「 オワーン、ウエーン、ワオーン」。あれ、まあ、なんてことだ。ガボガボの長靴 を脱がせて、水をはきだすが、この先、長靴は足をだすたぴに、グッ、チュ、グ ッ、チュ、と音をたてた。すっかり、ひるんだ岳彦は、以後、木道が水没したと ころにでくわすたぴに、手をしっかり握りかえし、怖ごわと歩をすすめる。

 木道が残雪に隠れているところが多くなって、鳩待峠からの登山者が増えはじ めると、今日の泊り場の山ノ鼻が近い。クロカンのスキーヤーが、雪原を思い思 いにワンデリングしている。川上川を渡ったところで遥子が早咲きのミズバショ ウの群落を見つけ、写真を撮った。

 予約をしていなかったが、尾瀬ロツジが運良く空いていた。みんな、ごくろう さん。部屋に入ると、またもや4人ともバッタリ横になり、ひと眠りする。風の 強い夕暮れ。小屋の上空を、タベの長蔵小屋では姿が見えなかったイワツバメが 群舞していた。今日、尾瀬に南からの第一陣が到着したのかもしれない。

 3日目、なんだか寒い夜だったと思っていたら、雪の舞う朝だった。でも、上 空には、こんどの山行で初めての青空が顔をのぞかせている。風があるので防寒 の身固めをしっかりやって、出発。食糧が減ったし、衣類は着こんでいるし、荷 物がぐんと軽くなって遥子の顔もいままでで一番、明るい。真っ白な、きれいな 雪に岳彦も体が軽そうだ。尾瀬を訪れる渡り鳥の通り道といわれる鳩待峠への道 は、立派な枝ぶりのブナの巨木が次々とあらわれる。ただ、登りが緩すぎて、こ のコースを下りのルートに選んだ場合は、スキーでも半分も滑れないだろう。

 峠が近くなるにつれて、久しぶりのいい天気に誘われたハイカーが、あとから あとから、降りてくるようになる。人でいっぱいの鳩待峠でひと休みし、展望を 楽しみに1867メートルの三角点へ。雪面の照り返しで、頬が焼けるのがわか る。登りつめたところで、目の前の至仏山、富士見峠、尾瀬ガ原、そしてずっと 遠くなった燧ケ岳を眺めて、おにぎりの昼ご飯にする。奥日光の白根山もくっき り。この登りの間だけ頭をだしたのに、峻二の顔ももう火照っていた。さあ、峠 まで、2キロメートル近い大滑降。
「岳彦、お山で何がおもしろかった?」「ソ リ滑りだよ。こう、木の枝をくぐって、いくの。すごいんだよ」。帰りの車の中 でも、岳彦は気分上々だった。





山の便り、大地の恵み (野原森夫)
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