利尻山 1975年の記録
         1975年9月25日〜27日


         
 大雪の縦走を終えて稚内へ。1500円の宿に泊まる

 大雪の縦走を終えて旭川にもどり、駅前の歩行者天国を見物したあと、午後7時 前の急行で宗谷に向かう。列車(急行宗谷)は、山間の曲がりくねった線路をゆっく り走り、夜12時に終点の宗谷駅に着いた。初めて降り立った秋の稚内は、夜遅かった せいもあるが、暗くて、寒い街だった。

 駅舎を出ると客引きのおばさんに声をかけられて、1泊1500円くらいの安い素泊 まりの宿に泊まることになった。山旅のはしごの最中で、昨日(24日)は忠別小屋泊 りで今日下山したばかり。旭川から260キロメートルも汽車に揺られてきたから、体を横に できるのは助かる。やや薄いとはいえ久しぶりのふとんにもぐりこんで、ぐっすりと眠 り通した。

  全島が山だけの利尻へ。ウニ丼を食べて登る

 翌朝(9月26日)は、朝食もそこそこに7時半に港を出る船に乗った。宗谷の港は、 思ったよりも小さい。船が出航して走り出すと、港の北側に背の高い防潮堤がずーっと 伸びているのが印象的だった。その堤をまわりこんで船はいったん北上した。右手に宗 谷岬、左手の目の前にはノシャップ岬の岩礁が見える。その左手の岩礁を大きく回り込 むと、船は西に進路をとった。利尻島が見える。三角形の山が、そのまま海に浮かんで いるような、全島が山だけの、島だった。

 幸い波は高くはなかった。2時間あまりで、船は利尻の鴛泊港に着いた(午前9時50 分)。桟橋には、ユースホステルの客呼びの歓声と歌声がざわめく。60人くらいの若者の 客と、その半分くらいの一般の客が船を下り、学生らしい客はユースホステルのバイトの 連中に大騒ぎの歓迎を受けていた。僕は、ユースどころか、今日は7号目の長官山の避 難小屋まで上がらなければ、今夜の泊まり場は得られない。桟橋からコンクリート舗装の 道を歩き出し、「うに丼」の看板につられて、港が見渡せる食堂に入り、まずは腹ごしらえ。 食事がすむと、そのまま、利尻山をめざして歩き出した。

  7合めの避難小屋で強風と雷雨の夜を明かす

 街の家並みを抜けて登山口をめざすと、道はキャンプ場の脇を通る。道標が立っていて、 いよいよ登山道に入った(11時15分)。林の中をすすむと甘露泉と名付けられた水場があ って、この時期は残雪をあてにできないので水を補給した。歩きやすい電光形の登りを繰り 返して、午後1時すぎに5合目を通過。きつくなりだした登りをもうひと頑張りで、午後3時前 に長官山に建つ避難小屋(7合め)に着いた。

 長官山は、下からは前衛の峰のように見えるが、たどり着いて見ると、それはただの尾根 のでっぱりで、稜線の肩のようなところだ。尾根の東側面を掘りこむようにして、風を避け、 平屋建ての小屋が建っていた。そばに、この場所の何かいわれを記入した大きな石碑があ り、これはちょっと景観を壊している感じがする。小屋の中に入ると、内部はまだそう年数は たっておらず、上下2段になった床はしっかりしている。

 この小屋もガスに包まれる天気になってきた。登ってくる人はいなくて、ついに夕暮れ近く なっても小屋に泊まる人は誰も現れなかった。雨が落ち、強い風も出てきた。ぼくは、一昨 日の忠別の小屋のときに続いて、また独りぼっちの夜を迎えることになった。

 夜半は強風と激しい雷雨となった。




利尻山・長官山避難小屋から、山頂方面


 利尻岳の山頂から樺太を望む

 9月27日。朝、小屋の外に出ると、利尻岳が初めてその全容を見せている。7合めまでき たのに、高い高い。天気はすっかり回復し、山頂には、ときおりガスがかかるものの、展望 はいい。とくに、小屋から頂上直下まで、のびやかにせり上がる草の斜面は、すでに秋の黄 銅色に変わっていた。夏遅くまで残っていたはずの雪渓は、さすがにこの時期にはもう消え ている。



長官山避難小屋から、利尻山

 朝御飯の用意をしようとしたら、外で冷やしておいたウインナーが袋ごとなくなっているのに 気がついた。この島は大型の哺乳動物はいないと聞いていたけれど、ネズミかリスにとられ たらしい。

 午前8時前に小屋を出て、霧の中を登って1時間ほどで山頂に到達した。山頂の西側は切 り立った断崖で足元からすっぱり切れている。自分が立っている北峰から南に80メートルばかり のところに南峰があり、その脇に力強く鋭い岩の塔(大岩)が立っていた。南の鬼脇からの登 山ルートは今は利用が禁止されているが、なるほど厳しそうな登高ルートだ。北側を見ると、 礼文島の先、意外なほど近い場所に樺太が見えた。海が青い。

  7合め小屋で、2度めの夜は漁火が島を囲む

 小屋へもどる。まだ予定日は残っているし、食糧もある。今夜もここへ泊まって、天候の回 復を待つことにした。今日は、登ってくる人、下る人がけっこう多く、さすが観光名所の山であ る。ほとんどの人は港近くのユースホステルの宿泊者で、駆け足で礼文へ、北海道本島へと 渡ってしまう様子。小屋の屋根に登って(尾根の東側を掘り下げて小屋を建設しているので、 地面から簡単に屋根に上がれる)、紅茶をいれつつ、陽なたぼっこをした。水は、沢の源頭ま でいくと、得ることができた。

 午後になって、沓形からの難コースを登ってきた法政大学の4人のグループが小屋に入っ た。別に3人のおじさんたちも鴛泊から到着して、今夜の避難小屋は一転してにぎやかに。太 陽はさきほど、真っ赤で大きいのが、海の向こうにというよりも、海中めがけてという感じで、沈 んでいったばかり。風も弱まって、静かな夕闇が訪れた。

 夜になって、小屋の外に出て、ぼくはびっくりしてしまった。島の周りが光の群舞で取り囲まれ ている。何百という光が四重、五重に島を取り囲んでいる。きっとイカ釣り船の灯だ。明日の晴 天を確信して、ぼくは小屋に戻った。

 霜柱を踏んで山頂へ。初めて出会ったブロッケン

 9月28日、懐中電灯を手に先行した3人の男性パーティーを追って4時35分に小屋を出発し た。すごい寒気だ。赤土の急登を駆け上がるが、長さ3〜4aの立派な霜柱が立っていて、足を とられる。

 「日の出までに着けるかな?」。ぼくは霜柱でザクザクいう斜面を必死で走った。小屋を飛び出 したときは、あんなに薄暗かったのに、もうあたりは朝の訪れをつげる薄銀色のもやの世界だっ た。もやの向こうの宗谷岬のつけねのあたりは、どんどん明るさを増していた。

 鋭角的な頂上部はガスの中だった。強い西風を受けながら、最後の急登。登りつめて突然、狭く 視界が開けると、頂上に上がりついた。不思議だった。頂上からはどの方角を見ても視界がない のに、今にも黄金色の一片を地平線の上に現そうとしているご来光の方角だけは、窓でも切った ようにガスがなかった。

 「やあ、ちょうどだったね」。先行した年配の3人パーティーが声をかけてくれた。まぶしくてうれし いひととき。あたりをオレンジ色に染め始めたひとかけらの太陽がぐんぐん姿を現し、その丸い全 容を整えていくにつれて、岩が、祠が、ぼくの腕が足が、真っ赤に染まっていった。冷たい風に打た れていたぼくの頬は、ほんの少し温もりを感じていた。


利尻山の山頂にて


 暗い西壁の方角に目を転じたとき、ぼくはガスの中に浮かぶ全円形の小さな虹を見た。ブロッケ ン! 円の中心には祠と、そして立っているぼくの影とがあった。両手をぐるぐると回すと、その影 も手を回していた。

 海がようやく銀色に光りだしていた。

 遠く大雪、天塩の山々が展望でき、稚内からオホーツク海側の海岸をたどることができた。北 海道本島は、まるで大きな地図を斜めから俯瞰したように、地形がはっきりとわかった。

 海に浮かんだ山からの眺めは、これまでに体験したことのないものだった。



(1970年半ばの利尻山は、まだ百名山ブームははるかに遠く、 静かな場所だった。道内では知床ブームが盛りの時期で、ユースホステルめぐりで利尻島に足を 運ぶ人も出始めた時期。
 二晩続けて泊まったこの避難小屋は、その後、老朽化し、1994年に建て替えられた。
 山頂の祠は、最近のガイドブックの写真を見ると、ずいぶん大きく立派なものに変わったようだ。
 もっとも大きく変わったのは、登山者が増えたことにより、山頂への登山道がストックなどで掘り返され、 深く大きな溝道となって、斜面を侵食していることのようだ。)



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野原 森夫