恵廸山の会が生まれた経過

     山野弘和「蒼き氷河の涯に」から抜粋




恵迪寮の冬の夜(「恵迪寮史」から)



以下の文章は、私の山の友人で、渓流釣りの師匠である、鹿児島県出身の山野 弘和氏がまとめたものです。




山野弘和「蒼き氷河の涯に」から

 これは、私が北大教養部に在学時(1974年〜)、「恵迪寮」に住んでいた頃の話 である。

 当時の恵迪寮は木造2階建てで、4棟が並び、それぞれが北から順に「新寮」「北 寮」「中寮」「南寮」と呼ばれていた。1棟には幾部屋かが並び(何部屋あったか忘れ た)、1部屋に4〜5名の教養部の学生が寝起きしていた。部屋の造りは至って簡単 なもので、18畳程の板張りの部屋に窓が二つ、洗面台一つ、畳の寝台五つ、スチー ム暖房有りといったものだった。その部屋を、一緒に生活する者達の思惑により、机 と本箱やカーテンで仕切りプライバシーを確保したり、あるいは部屋の中を寝室スペ ースと勉学スペースに仕切り、寝室スペースに寝台を全て並べて雑魚寝するようにし たユニークな間取りもあった。

 一緒に寝起きする同室者は、基本的に同じ趣味あるいは気が合う者同志が 寄り集まり、互いに選べるよう「部屋サークル制」という伝統があった。この制度は、 毎年6月に部屋替えがあり、その時4〜5名の学生が集まりサークルを結成し部屋 を割り当ててもらうもので、人数の多いサークルに優先権が生じる。そうしたことから、 いい部屋をとるには頭数を揃えることが重要で、毎年この時期になると水面下の動き が激しくなったものである。………

 こうした時期、恵迪寮の部屋サークルの一つ「恵迪山の会」は誕生した。誕生のい きさつなどを以下に当時の日記から原文のまま記す。



恵迪山の会 木枯らし山行 春香山にて。1975年11月



同じく、春香山の山行で。筆者の山野弘和氏。石狩湾を見下ろして昼食



春香山の山頂で

  ◇     ◇     ◇

「恵迪山の会発足について」

 自分が恵迪寮の執行委員をやっていたころ、部屋廻りで野原さんと話をした時、 野原さんも山をやっていたことが判った。委 員会の任期も終わりに近づき、又、部屋替えも近づいていたので、野原さんに「恵迪山 の会」というサークルを作ろうともちかけた。

 以前から、Uさんと「恵迪山の会」を作ろうかと話をしていたが、具体的にはならな いでいたのだった。野原さんも山をやっており、何か山の会みたいのを作りたいという 要求があったようなので、そう提案したらすぐ乗り気になった。

 ………野原さんが積極的に取り組み、候補のリストを作り、一人一人あたっていき、 どうも2部屋作れそうだという見通しがついてきた。それには、野原さんの作った恵迪 山の会のポスターが大きな役割をはたした。

 初期の段階では、29、30号室を10人でとりたかったが、………他の部屋が狙って いない中寮階下に目を付け、25・26号室をとることに成功!こうして、「恵迪山の会」は 6月22日をもって発足した。(1975年6月25日)

 第1期恵迪山の会メンバー
 25号室 野原、別府、Y、水戸
 26号室 山野、富(とみ)山、S、かっちゃん





当時(1976年ごろ)の山の会の部屋。
写真手前はメンバーの一人、かっちゃんで、
北大山岳部キャプテンだった1979年、
知床で遭難、亡くなった。



 なお、吾妻君は野原さんより1年遅れて入学(私と同級生)、山の会発足時は他の 部屋(多 分カンチョー:監査懲罰委員会だったと思う)に居た。


関連ページ  札幌へ



なお、現在の北大恵迪寮の様子は、恵迪寮自治会のページへ
http://www.mmjp.or.jp/keiteki




これは北14条西2丁目にあった、北学(きたがく)寮。
1977年ごろ、雪下ろし中の写真。
現在と異なり周辺、とくに札幌駅方面は見晴らしがきき、
後方に大通りのテレビ塔などが見える。
北学寮は取り壊され、
この場所には、1980年代に新女子寮が建てられた。






http://trace.kinokoyama.net  
北海道の山 Index へ    HomePage の TOP へ
記事、写真の無断転載を禁じます Copyright (c) Nohara Morio.
since Nov.2000


野原 森夫